インドからのレポート

「オーケストラ創設者の魅惑的な人生」

以下の投稿は、今年8月に90歳を迎えるボンベイ室内オーケストラの創設者であり、我々の師匠でもあるジニー・ディンショー女史に捧げるものです。

ジニーさんは1930年にダンジボイ・ディンショー氏とピロジャ・ディンショー夫人の間に生まれ、8人の子供のうちの1人でした。父親は彼女が医学を学ぶことを望んでいましたが、ジニーさんの心は他の場所にありました。

ムンバイのセント・ザビエル・カレッジで1年間、自然科学を勉強をした後、1947年にイギリスに渡り、17歳でヴァイオリンを習い始めました。 ロンドンでは、ヴァイオリンの家庭教師であるグラディス・ヌーン先生のもとで暮らし、その先生の家でアルバイトもしていました。年齢的に難しい楽器にもかかわらず、3年半でABRSM(英国王立音楽検定)のヴァイオリン検定試験のすべてに合格しました。

しかし、1952年、母親が「あまりにも滞在が長すぎる」と感じたため、彼女はインドに帰らなければなりませんでした。船で2週間の旅で帰国することになりました。母親は彼女が再びイギリスに戻ることを望んでいませんでした。しかし、ジニーさんは長く音楽から遠ざかることはできませんでした…。

一年後、彼女はロンドンに戻ることを決意しました。その後インドを離れても、いつかはインドに帰らなければならないとずっと思っていました。

イギリスで更に7年間勉強した後、ジニーさんは1960年にムンバイに戻りました。帰国後、まもなく、1962年に母親は亡くなりました。

ジニーさんは、「私がイギリスから帰国したことが知られると、すぐに教えてほしいという人が来て生徒ができました。」というように、すぐにムンバイでヴァイオリンを教え始めました。

その頃、ムンバイには、ボンベイ交響楽団とボンベイ・フィルハーモニー管弦楽団という2つの西洋のオーケストラしかありませんでした。

「1960年代半ば、教え子が増え始めたとき、若い才能のある人たちが出演するコンサートに招待されたことがありました。その時に、オーケストラを設立しなければならないと思い、ボンベイ室内オーケストラを結成しました」と後述しています。

ジニーさんがボンベイ室内オーケストラを設立したのは1962年のことで、指揮者はマックス・ミューラー研究所のコエルクロッター博士でした。「彼はデリーからコンサートのために来てくれたのよ!」とジニーさんは、そのことを昨日の出来事のように覚えています。

1975年から1978年まで、様々な理由で、オーケストラは活動を休止していました。しかしその後、ジニーさんはバンドラ出身の音楽教師ジョシク・メネゼス氏の助けを借りて、幼い子供たちと一緒にオーケストラを再開しました。

ゼロからオーケストラを作り上げるというジニーさんの情熱は、彼女が欠落していたセクションをすべて補充するためにとった方針にも表れています。例えば、オーケストラを再開したときにはチェロのセクションがありませんでした。「1978年には、ムンバイの子供たちにチェロの基礎を教えるために、スイスに1ヶ月間留学しました。」と彼女は言っています。

実際、現在のオーケストラのメンバーの多くは、子供の頃にジニーさんに教わった経験を持っています。ジニーさんは、また、ニューヨークから指揮者のチャールズ・ダーデン博士を連れてきましたが、彼のムンバイ訪問は、オーケストラを支援したいというイギリス人チェリストがスポンサーとなっていました。ダーデン博士は9ヶ月間、ムンバイでオーケストラの訓練をしました。彼の元で若いオーケストラは3回のコンサートを成功させました。

ボンベイ室内オーケストラは、ミラノのオペラ・カンパニーが「フィガロの結婚」のインド公演をタタ劇場で上演した時のオーケストラとしても活躍しました。1984年、インディラ=ガンディー首相が暗殺される10日前の最終公演には、首相自らもコンサートに臨席しました。
1985年、ボンベイ室内オーケストラはイギリスのロイヤル・バレエ団によるインド初のライブ・バレエ「バゼル」のオーケストラを務めました。この公演は1週間にわたって行われました。「その模様は、インド全土、ドゥーダルシャン(インド国営テレビ)で放映された。」とジニーさんは言っています。その後、ジニーさんは。イギリス女王からMBE(大英帝国勲章)を授与されました。

「それまでの間、私はオーケストラでヴァイオリンを弾いていました。その後、しばらくはチェロのセクションに入りました。オーケストラには45~50人のメンバーがいました。オーケストラは、若い音楽家たちが世界中の指揮者に触れることができる、トレーニングの場のようなものでした。」と彼女は言っています。ボンベイ室内オーケストラは、定期的な支援者に支えられて、年に4回の公演を行ってきました。

それと並行して、ジニーさんは音楽を教え続けています。「最初の頃は月80ルピー(約110円)、その後100ルピー(約140円)、最近では500ルピー(700円)まで上げました。」と彼女は言います。「私は、音楽と結婚しました。記憶力を養い、若々しく活動的であり続けることは、心身にとって最高のことなのです。」

インドにおける西洋クラシック音楽の物語は、ジニーさんの計り知れない貢献と努力なしには不完全なものとなっていたでしょう。そのために、私たちは、これからもずっと感謝し続けます。

私たちが、あなたの美しい旅の一部であることに、仲間の音楽愛好家と共に、あなたに感謝します。私たちの愛するジニーさんの90歳の誕生日が幸せで至福に満ちたものであることを願って。

ボンベイ室内オーケストラ